*この文章は、レデンプトール修道会司祭 谷口秀夫師による「絶えざる御助けの聖母」聖画宣布 150周年記念講話(2015年5月14日 カトリック雪ノ下教会)から抜粋要約し、ご承諾を得て掲載しています。
「絶えざる御助けの聖母」聖画の由来(要約版)
レデンプトール修道会司祭 谷口秀夫
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クレタ島からローマへ
カトリック雪ノ下教会に掲げられております「絶えざる御助けの聖母」のイコンは、地中海に浮かぶ島、クレタ島で制作されました。いつ頃作られたかは定かではありませんが、西暦1500年より前と思われますので随分古い時代のものです。15世紀の終わり頃、一人の商人の手によってクレタ島を離れ、ローマに運ばれたと云われています。その後長い曲折を経て、ローマの聖マタイ聖堂で多くの人々から崇敬を受けてきました。
レデンプトール会との関わり
しかしフランス革命の時、聖マタイ聖堂が壊される前にアグスチノ会の修道士によって運び出され消失の難を逃れ、19世紀に教皇ピオ9世がこのイコンをレデンプトール会に委ね、あまねく世界に広めるようにとお命じになられました。現在、このイコンはレデンプトール会ローマ総本部の聖堂、聖アルフォンソ教会に掲げられております。実はこの聖アルフォンソ教会こそ聖マタイ聖堂のあった場所に建てられたのです。これが「絶えざる御助けの聖母」とレデンプトール会との関わりの始まりです。
イコンとは何か
「絶えざる御助けの聖母」は生粋のイコンです。イコンはパソコン用語「アイコン」と同じ言葉で元はエイコーンというギリシャ語です。英語では「イメージ」という言葉に当たります。像、生き写し、象(かたど)りの意で、東方教会で盛んに描かれたキリスト教絵画のことを云います。イコンはそれを通して神、又は神の国を垣間見るための信心道具です。イコンを像とするならば、この像を通して現像である神に肉薄するためのものです。イコンを見ていると、そこに透かし絵のように浮かんでくる神のシルエットを感じます。イコンそのものではなくイコンの向こうにある神を観ようとするもの、とも言えます。神を観る、という言い方に抵抗があるならば、イコンを通して漂ってくる、見えざる神の香りをかぐ、ということになるのでしょうか、そういうふうに言うこともできます。イコンそのものにこだわりますと、それは偶像礼拝になります。それはイコンの意図するところではありません。しかし、イコンの向こうに観えてくる神に心を向けるのであればイコンはその役割を果たしていることになります。
崇拝と崇敬
イコンそのものは神でないのはもちろんですが、イコンは神の現像をいくばくか刻印されているものなので大切に扱わねばなりません。イコンを大事にすることを「崇敬」と云います。ギリシャ語でプロスキュネシス、そしてイコンを通して感じられる神を大事にすることを「崇拝」ライトレイヤと云います。イコンへの崇敬無くして神への崇拝にはたどり着けず、神を崇拝するからにはその前提としてイコンへの崇敬があるはずだと言われます。イコンは東方教会にあって神と人間、天上と地上を繋ぐ、いわば秘跡的媒体と云えるものです。神はイコンを通して人間に交わりを求め、人間もイコンを通して神との交わりを求めるのですから、イコンは「地上と天上の間にある窓」とも云われています。
イコンの描き方は定められている
イコンの描き方というのはほぼ定められています。顔や衣に光の加減を通して多少の明暗を付けますが原則として影は付けません。たとえば、人物の背景に影を付けないというのは例外の無い原則です。世のものには影があるけれど来世のものには影が無いからです。ですから非常に平面的で立体感の乏しい絵になります。ロシア・イコンなどはビザンチン・イコンに比べて多少明暗を付けてありますので幾分肉厚な感じがしますが、総じて平面的です。
平面的である理由
何故イコンが平面的かと云いますと、旧約聖書は偶像制作の禁止を謳っているからです。当時は偶像といえば木や石や金で作った立体の像を指していたわけで平面に描いた絵を指していたのではありませんでした。そしてたとえ絵であっても遠近や明暗を極力抑制した描き方をすることで、イコンの人物に立体感を持たせないようにし、そのことで偶像制作の禁止をクリアしようとした、というふうにも云われています。こじつけに聞こえるかもしれませんが、それがイコンが平面的な絵である一つの理由です。
写実的ではない理由
又、イコンは写実的ではありません。たとえばラファエロの描くような聖母はとても写実的で美しい婦人ですが、そうした絵の前で祈れるかというと、世俗的に過ぎて祈りにくい。そのため祈りに使われるイコンは個人的な情感や思想を込めることはいっさいありません。祈りにとってそういうものは全て妨げになるからです。
イコンは制作者が誰であっても同じ
西ヨーロッパの絵画というのは、10人の画家がいれば10人の聖母マリアさまが個性豊かに描かれることになりますが、イコンは制作者が誰であっても概ね同じような聖母マリアさまです。祈りの対象、礼拝に用いられる道具なので絵画としての個性は必要ないのです。また聖書に「書か」れているイエスさまやマリアさまを忠実に描くので、イコンは「描く」とは云わず、「書く」と云います。
イコンの働き
「絶えざる御助けの聖母」の目を見ると、罪人である私たちに向けられる慈しみの眼差しを感じます。私はこの眼差しによってどれだけ救われたか知れません。ストゥディオスの聖テオドロスの言葉で「罪によって歪んだ人間の顔をイコンという鏡に映すことによって、人間の顔は本来の像(イコン)を取り戻すのである」という言葉があります。すなわち、自分の心をイコンの目にさらすことによって罪に汚れた自分の心を清めて頂くのです。イコンにはそういう働きもあります。写真でもいいですから、オリジナルの「絶えざる御助けの聖母」をぜひ見て頂きたいと思います。ここの雪ノ下の「絶えざる御助けの聖母」はすばらしいです。本当によく描かれていると思います。私が日本で複製を見てきた中で一番いいと思います。大切にして頂きたいです。
なぜ複製は作られるのか
なぜ複製は作られるのか。それはオリジナルのイコンの良さ、即ちそこに滲み出ている神の現像を保存するためですが、もう一つ理由があります。それは、奇跡を起こすとされているイコンは、非常に人気があって、民衆から絶えず引っ張りだこで「私の村においでくださって、どうか奇跡を起こしてください」と色んなところからお呼びがかかります。それで、一つのイコンでは対応できなくなって、複数のイコンを作らざるをえなくなるわけです。ロシアの魂と言われる「ドンの聖母」だとか、「カザンの聖母」だとか幾つか複製が残っています。「絶えざる・・・」になりますと、世界中に数え切れないほどの複製が出回っておりまして、「絶えざる・・・」はそれだけ多くの奇跡を起こした聖母ということで、他に追随を許さないほどの人気を博しています。レデンプトール会の宣伝効果もあるのかもしれませんが、やはり聖母が「絶えざる・・・」を通して豊かに働いておられる証左ということができます。
イコンのポータブル性
旅をすることが多いイコンゆえに、そのうちイコンは簡便でなければ、ポータブルでなければ、という点が重要になってきました。遂にはイコンの本質的な要素とまで考えられるようになります。特にロシアは森の国、木の文化の国です。ビザンチンの石造り教会堂では、直接に教会堂の壁に描き込むフレスコ画やモザイクが多くみられますが、ロシアの木造の教会堂では、木の板に描いて掲げるイコンが多く製作されました。この「木の板に描く」ということがイコンをポータブルなものにし、民衆の生活に浸透していくうえでとても重要な契機となりました。というのも、手のひらサイズのものまで製作されるようになったからです。
手に触れられるところに
ご存知のように「絶えざる御助けの聖母」は、縦53cm、横43cmほどの絵です。これは多くの人のもとに駆けつけやすいサイズであるわけです。教会の天井に描かれたフレスコ・イコンもありますが、やっぱり寸法はそんなに大きくはない、というのがイコンの真骨頂だと思います。私は、40-50cmぐらいの大きさのイコンは、高い所に掲げて仰ぎ見るようなものではないと思います。人々の手に触れやすい所に置くべきと思っています。東方教会の聖堂に行けば、イコンは人々の目の高さにあって、善男善女が触れたりキスをしたりして祈っていますが、そういうリーチできる所にある、民衆の生活に根差した信仰グッズであると思います。だから皆さん、イコンは写真で小さくてもいいですから、いつもバッグにしのばせておいて下さい。そして移動の電車でこっそりマリアさまのお顔を眺めてみて下さい。イコンは見るためのもの。イコンを見ることがそのまま祈りです。どこでも聖母マリアさまへの慕わしい思いをもって眺めてください。聖母マリアは必ず何か答えて下さいます。
幼子イエスを抱く姿の意味
イコンの世界では、イエスさまを抱いていらっしゃらないマリアさまは存在しません。西ヨーロッパでは18世紀以降、マリアさまが単独で描かれたり彫られたりしましたが、東方教会においてはありえません。それは、神を生んだ方、というのがマリアさまのアイデンティティであり、幼子イエスから離れた単独者としてのマリアさまは、アイデンティティの喪失だからです。
マリアさまに祈ると、おのずとイエスさまにつながり、イエスさまに祈るとき、マリアさまも祈って下さっている。マリアさまを想うとき、その思いはイエスさまにつながるのであり、イエスさまにつながるとマリアさまへの思いがますます深くなっていくというふうに、マリアさまとイエスさまは一心同体です。そういうふうに描かれるのがマリアさまのイコンの形なのです。
4つの基本的な構図
マリアさまのイコンには大きく分けて以下の4つの基本的な構図があります。
①ホディギドリア型は幼子イエスを片方の手で抱き、もう片方の手でそのイエスを指し示しています。ホディギドリアは「導引女」と訳されます。「絶えざる御助けの聖母」はホディギドリア型です。
②エレウサ型は幼子イエスを抱いて顔を近づけ頬ずりしている構図です。慈愛、慈しみ、「慈憫の聖母」と言われます。
③プラティテラ型は両手を広げて祈り、胸元に円が描かれ、その中に幼子イエスがおられます。その胸元は子宮だそうです。プラティテラは「広大な」という意味。天地を創造される神の御子を宿した方だから、マリアさまは「天より広きもの」と詩的に表現されます。
④ニコポイア型は、マリアさまが正面を向いて座り、その膝の上に幼子イエスをのせておられます。幼子イエスは智恵そのものであり、そのイエスさまをご自身の膝にのせておられるので、このマリアさまは「智恵の座」セデス・サピエンチエと呼ばれます。
マリアさまの尊称
マリアさまほど色々なタイトルを持っておられる聖人はありません。「暁の星」、「無原罪の・・・」、「ステラマリス」など、いろんなふうに呼ばれておりますが、すべての尊称の大もとは「神の母」です。東方教会ではマリアさまとも聖母とも言いません。なぜなら、マリアという名の女性は多くいましたし、聖なる雰囲気を湛えた母はマリアさま以外にいたかもしれない。しかし、神を生んだ母は、主イエスの母お一人しかいらっしゃらない。だから「神の母」とお呼びするのです。東方教会では「生神女」(しょうしんにょ)と呼ばれます。
絶えざる御助けの聖母の見方
「絶えざる・・・」のイコンの意味ですが、イコンの色彩、割り付け、体の各部の所作、衣服の色などあらゆる部分が、見る者にその意味を読み取ることを求めています。アメリカのデンバー管区のダニエル・コーンさん(修道士)による、いくつかの解説をご紹介します。
幼子イエスを抱くマリアさまの意味
幼子イエスを抱いたマリアさまは「教会」を表しています。「教会」と「主キリスト」とは、別々に存在するのではないという意味です。
ギリシア語の意味
画面の最上部のΡΜ(ローとミュー)とΘΥ(テータとイプシロン)の文字―これはギリシャ語で「神の母」の略字です。
ポーズの意味
マリアさまが「私は道である」と言われた幼子イエスさまを片方の手で抱き、もう片方の手でイエスさまを示している構図をホディギトリア型と言いました。ホディギトリアの「ホディ」とは「ホドス」(道)の合成語です。マリアさまは「道」であるイエスをこの世に導き出し、指し示した方なのでホディギトリア(導引女)と言われます。
マリアさまの衣装の意味
・外套の色(青あるいは紺)は母性を表します。また濃紺は神の存在の深さを表しているとも言われます。ビザンチン様式では濃紺ですが、ロシア様式では濃い緑と青の混合です。極寒の地ロシアの夜空はオーロラのようで、地中海の夜空とは違うのでしょう。
・ブラウスの赤は童貞性です。純潔とも言います。童貞性(ヴィルジニタス)を表しています。「童貞性」を突き詰めると「忠実」です。そして忠実は神の属性です。人間が忠実なのではなく、神が忠実なのです。マリアさまは神の忠実を受けて忠実なお方です。
・ イエスさまの上着の色やマリアさまの外套の裏地には緑が配色されています。この色は神のいのちを表すとも・・・。
・これら紺、赤、緑の三色は王族が用いる色でした。
額にある星の意味
マリアさまの被っておられるベールの星:救い主イエスの誕生は救いの夜明けです。そして夜明け前に輝く星はマリアさまです(暁の星)。
マリアさまはイエスさまへの導く星、イエスを礼拝できるよう東方の賢者を導いたベトレヘムの星を思い出させます。
足とサンダルの意味
・幼子の足とサンダル。今にも落ちそうなサンダルですが、これはダニエル・コーンさんによると「人間の危うさ」を表しているそうです。神の子は、そんな人間の一人となられたと。
・不自然なほどに突き出された踵は「お前の子孫と女の間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼の踵を砕く」という創世記3章の言葉に由来するのかもしれません。蛇すなわち、サタンに踵を砕かれることによって、蛇に勝利した神のひとり子の十字架を指している、そういうふうに考えることもできます。しかし、別の解釈もあります。今日、指紋は本人認証に用いられますが、古代においては足の裏がその役割を果たしたそうです。サンダルの紐が緩んでいるのが意味するのは、不従順の罪によって毀損された契約を廃棄し、あがないのために肉となられたイエスがまことの神、まことの人として新たに自らの足で証印しようとしておられるのだ、とか・・・。
どう読み解くか
イコンに込められた意味をどう読み解くか。「絶えざる・・・」について、簡単にご説明しましたが、色々な説明があります。あってよいと思います。異論には事欠きません。何でもいいわけじゃありませんけど、これでなければならない、というものでもありません。その他に隠された意味もまだまだあるようです。神秘のヴェールを一つひとつ取り除いていくように、この不思議な聖画の解明にチャレンジしてみてください。
聖画に育まれた信仰
さて最後に、私は幼児洗礼で、レデンプトール会司祭が牧する教会で信仰を育まれてきました。小さい頃から「絶えざる御助けの聖母」を見てきました。「見てきました」というよりも、聖母に見られてきたと言った方がいいでしょう。教会から15年以上も離れて不信仰のなかで暮らしていましたが、この聖画のイメージだけは私の頭にしっかり定着しておりました。そして再び教会に足を踏み入れて真っ先に感じたことは、この聖画への懐かしさでした。懐かしいと感じるものを持っているというのは、それだけで恵みだと思います。懐かしいのは「ふるさと」であり、ふるさとにまつわるあれこれのことであり、それらがその人のアンデンティティを形成しています。古くて懐かしい小物入れをひっくり返す度に、いつもその中から「絶えざる・・・」も出てきます。「絶えざる・・・・」を懐かしいと感じることができる。これは私にとって大きいです。曲がりなりにも信仰につながってきたのは、この「絶えざる・・・」のお陰です。そして、ときどき思うことは、「私には信仰がある」と言えるものが一つあるとすれば、それは自分の頭の中に焼き付いている「絶えざる・・・」のイメージ(イコン)だけかもしれない。それ以外はカラッポ。イコンを現代に継承して来た東方教会の伝統に敬意を表すとともに、「絶えざる・・・」で私を育んでくれたカトリック教会に感謝したいと思います。