巻頭言

7月の巻頭言

いたらなさを見つめて

保久 要

いま世界中で争いが絶えません。ウクライナやパレスチナの問題は毎日のように報道されていますが、アフリカやアジアなどでも紛争が頻発しています。議論は平行線をたどるだけでだらだら長引き、犠牲者が日々増えています。何とかして和解への道は見出せないのでしょうか?聖書には次のように書かれています。

<だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとして、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。>(マタイ5:23-25)。

 供えものをすることはユダヤ人にとって大切な行為でしたが、それを中断してでもまずしなければならないのが「和解」だ、とイエスは言っています。その通りだと思うのですが、しかしこの和解が簡単ではない。現在の世界の状況からも、自らの経験からも、そう実感します。

 原発事故後の福島にあって、様々な立場の人たちの対話の場を企画しているNPO法人の理事長で、作家の安東量子さんの記事が6月6日の朝日新聞に掲載されていました。<社会の分断が大きな問題となっている昨今、「対話」が必要であるとよく指摘される。・・・ところが、対話には非常に大きな、そして、決定的な欠点がある。それは、対話する気になった人としか対話できない、という自明、かつ、厳然たる制約があることだ>とまず指摘します。そして長い間激しく対立していた成田闘争が和解へと進んだ事例に着目し、対立しあう双方の背後に「これで本当に良いのか」「もっとやりようがあったのではないか」という、一種の後ろめたさや後悔のようなものがあったとします。<その呵責が軌道修正をともなう対話を可能にした。とすると、和解への道筋は、己の至らなさを自覚した時に初めて得られるものかもしれない>。

 争いや対立があるとき、往々にして私たちは自己の正当性を主張しようとして、どんどん硬直化してしまいます。自分の正義を主張し、相手を論破することに躍起になってしまう「正義中毒」なる言葉もはやりました。でも心のどこかで、自分も間違っていること、正論がすべてでないことを、わたしたちはわかっているものです。その「うしろめたさ」がある限り、和解への道は可能だということでしょう。自分の内面を見つめることは、時につらい作業です。でもこの「至らなさの自覚」が、自分にも、世界にもいま必要なんだな、と感じています。