巻頭言

2月の巻頭言

「鬼は外?」

保久 要

早いもので2025年もひと月が過ぎ、暦の上では春を迎えました。立春前日の節分に、「鬼は外」と言いながら豆をまいて邪気(鬼)を追い払う豆まきの歴史は古く、遠く奈良時代までさかのぼるとも言われています。

もう20年も前のことになりますが、ローマ留学中に、この節分という文化をイタリア人に説明しようとして、「鬼」をなんと訳せばよいのか苦労したのを思いだします。悪魔、幽霊(ゴースト)、モンスター、怪獣(ゴジラ)…、どれもしっくりきません。人間に災厄をもたらしたり悪さをする悪者のようでありながら、「泣いた赤鬼」に出てくる鬼のように、やさしく友情にあふれ、自己犠牲をいとわない鬼もいます。「鬼のパンツ」は時代を超え、子どもたちは大好きです。

善だか悪だかわからず、その人となり、いや鬼となりをよく知らないけれど、なんとなく怖い。ともかく自分たちとは異なった存在だから「鬼は外」と遠ざけ、出て行ってもらう。私たちは気を付けないと、無意識に、無邪気に、差別や排除の一端を担ってしまうことがあります。すこし難しく考えすぎかもしれませんが、そういう危険性があることを、心のどこかにとどめておく必要もあると思います。

大阪教区の中川明神父様は『妖怪の棲む教会』(夢窓庵2002年)で、自分たちの慣れ親しんだ文化日常を生きる人々の世界と、それとは異なった人々(それを異人、妖怪と表現しています)との境界に、教会をたてようと提唱しています。多様性の時代と言われ、金子みすゞさんではありませんが、「みんなちがってみんないい」社会になってきたようですが、一方で単純な二極化が加速しています。正義か悪か、敵か味方か、全肯定か全否定か。人々やその思いを分断する境界線にたち、壁を作るのではなく橋渡しになることも、教会の一つの使命です。<壁のあるところには、閉じた心があります。必要なのは壁ではなく、橋です!>(教皇フランシスコ)

調べてみると、「鬼は内」という掛け声で豆まきをする地域もあるようです。地名や元領主の名前に「鬼」がつくところに多いようですし、鬼恋(来い)節分祭と言って、全国で追い出された鬼を呼び寄せる豆まきもあるようです。京都福知山大原神社では、なんと「鬼は内、福は外」と言うそうです。<鬼(厄)を同神社に迎え、福を同神社から氏子の各家庭に送る>(同神社HP)のだそうです。

罪びとを懐に招いて、良い知らせ=福音を人々に宣べ伝える。これはまさにイエスそのもの姿であり、教会もそうありたいものです。

*「巻頭言」は、カトリック雪ノ下教会、教会報「ひびき」掲載記事から転載しています。(広報部)