巻頭言

7月の巻頭言

長嶋茂雄氏逝く

保久 要

ミスタープロ野球、長嶋茂雄氏が先月6月3日に亡くなりました。巨人ファンだけでなく、多くの国民から愛されたスーパーヒーローでした。

長嶋さんの現役引退試合は今でもよく覚えています。1974年10月14日、当時まだ小学校低学年だった私は、急いで学校から帰ってテレビを見ていたんだと思います。試合後の引退セレモニーは、のちにポスター付きのレコードになり、それは確か私が初めて買ってもらったレコードでした(いや、沢田研二だったかな…)。何度も繰り返し聞いているうちに「昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来…」ではじまるスピーチをすべて暗記してしまったと思います。

現役引退後、長嶋さんはその愛弟子、松井秀喜氏に「プロ野球選手はファンあってこそ」と口を酸っぱくして教え込んだそうです。常にファンのことを第一に考え、ファンに喜ばれるようなプレーをしろ、ということでしょう。同じことが司祭についても言えるかもしれません。司祭も信徒あってこそです。羊がいなければ羊飼いも必要ありません。司祭は常に信徒のことを考えるべきだと思います。ただ「信徒に喜ばれる司牧」となると、よさそうで、でもなんかちょっと違うような気もします。

一方長男一茂さんがパウロという洗礼名を持っていることは、本人も公表していますが、それは奥様、というか奥様の実のお母様の影響だと思います。お母様は私の出身の菊名教会所属で、私の家と同じ地区、しかも私の祖母と仲が良かったので、教会の帰りなどよくご一緒しました。司祭叙階の直前、お母様から「要君、厳しい司祭になってくださいね。」と言われました。「厳しい司祭」とは?自分にも信徒にも厳しい司祭?25年たった今、改めてその意味を問い直しています。

2千年続いている教会には、一貫して変わらない教えが確固としてあり、それは時に厳しいものでありえます。一(いち)司祭の裁量でそれをゆがめることはできません。でもその教えが信徒を悲しませるようなものであった場合、それをどう喜びに変えられるか、それが司祭の頑張りどころかな、と思います。教会法の最後の条文は、「最高の法である救いを念頭に置かなければならない」(第1752条)となっています。

どんな司祭であるべきか、という問いは永遠の課題で、私自身まだ模索中です。皆さんと一緒に歩みながら考え続けるべき課題です。でも一つ言えることは…

「司祭職は永遠に不滅です!」

*「巻頭言」は、カトリック雪ノ下教会、教会報「ひびき」掲載記事から転載しています。(広報部)